小学生の時に父と行った「しょんべん横丁」の思い出

ノスタルジー

新宿のガード下にある現在の「思い出横丁」

はたして、どれくらいの人が、あそこを「思い出横丁」と読んでいるのだろうか?

あそこに何度か行っている人であれば、全員が「しょんべん横丁」と呼んでいる

はずである。何も実態が変わらないのに、名称を変えたって誰も

そんな呼び方はしないものである。令和二年で53歳になる私が子供のころから

何一つ変わっていない場所である。戦後のバラックの名残がある数少ない

場所の一つである。一言でいえば、大衆酒場街である。

1980年ごろ、家族で焼き鳥屋にいったのである

当時、小学五年生だったころである。父が「今日は新宿に焼き鳥を食べに行こう」

と突然いって、家族で新宿に行ったのである。父と食事に行く時は、

いつもホテルのバイキングや、寿司屋が多かったのであるが、

焼き鳥屋なんてはじめてのことであり、まったく想像もできなかったのである。

井の頭線浜田山の自宅からタクシーで新宿まで行き、しょんべん横丁の中に入り、

家族四人で入れるような店を探し、入ったのである。無論カウンターの店で、

四人全員が並べるような空いている店はそこしかなかったから入ったという感じである。

結果として、父との最高の思い出の一つになってしまった

焼き鳥を食べたことはあったが、それは駅前の屋台でお土産として購入し自宅で

食べるという感じで、お店で食べるのは初めての経験だったのだ。

焼きたての焼き鳥がこんなにおいしいものだとは、初めて知ってびっくりしたのである。

父も上機嫌で、楽しそうに酔っ払っていたのである。

私は、ねぎ焼きといって、ねぎだけを焼いたものにはまってしまい、そればかりを

食べていたのである。こんなにネギがおいしいものだとは、しらなかったのである。

本当においしかった。その後、自宅に帰ってから、母親に同じようなものを

つくってもらったのであるが、どうやっても同じような味にはならなかったのである。

焼き鳥屋さんのテクニックのすごさを感じたものである。

結局、父親と焼き鳥屋にいったのは、最初で最後になってしまった

その焼き鳥屋が、新宿のしょんべん横丁にあった店だったと認識したのは、大人になって

からである。母親に尋ねたら、教えてくれたのである。

それから二年後、父は脳卒中で倒れてしまい、2年間のリハビリの後に社会復帰

したのであるが、家族で食事に行くようなことはなくなってしまったのである。

いろいろなことが変化してしまったからである。

思い出してみると、この頃が、我が家族が一番幸福な時期だったのである。

当時はそんなことを意識することさえなかった。

ニューオータニの久兵衛や、ホテルのレストランにいった思い出よりも、

こっちのほうがはるかに楽しい思い出なのである。

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