電車内で大声で話してもいいが、電話だと小声でもNG

日常の出来事

厳密にいえば違うかもしれない。電話ないで大声で会話するのはマナー違反である。

でも、どのレベルが大声なのかは感じ方かので、相手によるのだ。

一方で電話に関しては無条件でNGである。唯一許されるのが、

「今電車なので、折り返します」というコメントだけをいって切る行為は

容認されているような気がする。

小声で会話するのがOKであるなら、小声で電話するのもOKな

気がするのであるが、とにかく電話はNGなのである。

日本にはそういう無条件なルールが数多く存在する。

本来の意味は、他人に迷惑をかけないためのマナーというのが趣旨なのであるが、

すぐにルールだけが一人歩きするわけである。

決め事を守るということだけにフォーカスしている人が日本人には多いのだ。

これは人間を管理するためにはとても便利なルールである。

為政者にとっては、本当に都合がいいことなのだ。

よく「日本には奴隷制度がなかった」と思っている人がいるが、

よく考えてみるとわかるが、士農工商えた非人という制度は、奴隷制度にも劣る

制度である。

武士は自由に町人を殺してもいいわけで、

また多くの人は、えた非人の人たちを差別してきたわけである。

ルールを守る限りにおいては何をしてもいいということは、

ルールを守れば殺人もOKということなのだ。

江戸時代は「切り捨て御免」というルールがあったので、

夜になると、辻切りが現れて、試し切りと称して多くの人が殺されたわけである。

奴隷だって、こんなに簡単には殺されなかったわけである。

「ルールを破ったから悪人だ」と思っている人は、思考力がない人である。

何のためにルールがあって、それにはどんな意図があり、どのようなケースに

当てはまることで、それをどのような場面で適用すべきなのかを

しっかりと考えて判断するべきなのに、そうする人は少数だろう。

電話で小声で話をしている人と、大声でとなりの人と会話をしている人と

比べれば、大声で会話している人のほうがよろしくないだろう。

でも、おそらく多くの人は電話をしている人のほうを咎めるだろう。

なぜなら、大声の定義は曖昧であるが、電話をかけているという定義は

簡単に区別できるからである。

ゆえに、確実に裁けるという理由で電話をかけている人に注意をするのである。

世の中には、そういう「有罪マニア」のような人が溢れている。

一言で言えばストレス発散なのである。

江戸時代の身分制度もある意味ストレス発散なのである。

身分制度をつくると、一番上にいる少数の人のみにか自由がなくなるので、

99%の人はストレスがたまるので、彼らのストレスを発散させるために

下の身分の人を下げずんで楽しむというのが理由の根幹なのである。

例えば米国の奴隷制度はなくなり、今でもその反省を国家レベルで行っているのに対して、

日本では現在でもまだ継続しているのである。

表面上、身分制度はなくなっていることなっているが、大した反省もなく、

考え方自体は現在も継続しているので、多くの人々の根源的な考え方の中に残っているのである。

現在では形をかえて「ルールを守れない人をぶっ叩く」という差別意識で

現れているのである。

ゆえに、不倫をした渡部建や、闇営業をした宮迫博之などが、必要以上の

バッシングを受けるのである。実は、電車内の携帯電話禁止と同じ問題なのである。

この問題を解決するためには、根源的な問題を解決しないと無理なのだ。

例えば天皇制にしても、現在のような立ち位置はとても不安定なものだと感じている。

イギリスの皇室並みに、もっと自由を与えてあげるなどの配慮が必要だと思う。

考えてみるとわかるが、結婚問題などは男女の問題なのに、小室さんと眞子様

の結婚を国家レベルで否定しようとしているわけで、これも同じ問題である。

ようは「我々が何千年も守ってきた皇室という素晴らしい文化を冒涜するような

ことは、たとえ皇室の一員であっても許せない」という意識なのである。

そう考えてる人は、自分が抑圧されて生きてきたので、他人にも同じように

強いる人なのである。

話が飛び過ぎたように感じる人もいると思うが、

電車の中での携帯禁止問題は、皇室問題、差別問題でもあるのである。

思考してみれば簡単にわかるはなしなのである・

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