やりたいことなんてわからない。やりたくないことはわかる。

よく「自分の本当にやりたいことをやりなさい」とかいう人がいるが、自分が本当に何をしたいかなんて、わかっている人なんているのだろうか?その場の流れで、「○○をやりたい」と思うことはたまにあるとは思うが、それが本当に自分のやりたいことかどうかなんて、かなり怪しいものである。それでも、「やりたい」と思えることがあるなら、それは素晴らしいことであるし、やればいいと思う。でも、多くの人は、本当にやりたいことがなんであるかなんてよくわかっていないと思う。赤ちゃんの頃は、自由にやりたいようにやっていたのに、物心がつくようになると突然、ありとあらゆることを禁止されて生きてきているのだから、やりたいことが何だかわからなくて当然なのだ。そこで大事なのが、「嫌なことをやらない。嫌な人と付き合わない」ことだと思う。やりたいことが何であるかはわからない人でも、やりたくないことに関してはわかるはずである。パワハラの上司に会いたくないとか、生のカエルの肉を食いたくないとか、自分がやりたくないことは簡単にわかるはずだ。腐ったものを口に入れたら吐き出してしまうようなものであり、本能なのである。そういう自分にとって嫌なこと、やりたくないことをやらないということはとても重要であるのだ。多くの人は誤解している。自分がやりたくないけど、自分のためになることなんて、ないのだ。例えば学校の勉強。多くの親は勉強をやる気がない子供に「勉強をしなさい」と命令する。子供は勉強をやりたくないから、やらない。こういう状況はよくある。では、子供が勉強をやりたくないから、やらせなくていいいという考えは正しいのだろうかという疑問である。それはこういうことだ。本当に勉強が嫌いな子供なんて、そんなに存在しないということである。少なくとも学校に行くことができるくらい日本語をマスターしている子供であれば、それなり以上に勉強をしてきたわけである。ゆえに、世界でも最高難度の日本語を自在に使用しているのだ。そういうハイレベルな子供が「勉強をしたくない」といっているということは、その子供の問題であると考えるより、教え方や環境の問題であると考えるほうが、正しいわけである。やる気のない子供に勉強を教えるという視点ではなくて、子供が勉強をやりたいと思えないような環境を改善してあげるという視点のほうが大切なのだ。むしろ、子供は本当は勉強をしたいのに、彼にとって環境があまりにも劣悪なので、勉強ができなくて困っているという状況である可能性のほうが高いのだ。話を元に戻すと、そういう状況で、子供が「勉強をしたくない」と考えているのであれば、そこで無理やりにやらせるのは何の意味もない。むしろ、やらないほうがいいわけである。よっぽど一日中ゲームをやっているほうが精神衛生上もいいことなのである。多くの人はそういう時こういう風に感じるのだ。「同じような状況でも一生懸命勉強している子供だっているのだから、そのこのようになってもらいたい」この感覚は、むしろ間違っている。そんな劣悪な状況で、あえて勉強をやるというのであれば、そこに何らかの異常性があると考えるほうがいいと思う。あまりにも貧困で、そこから抜け出したいとか、親からのプレッシャーが半端でないので勉強したほうがマシだと思っていたりするわけである。無論、ごく稀に、本当に勉強が好きな人も存在するだろう。それはむしろ、アインシュタインのような変わり者である。やりたければやればいいし、やりたくなければやらないほうがいいのである。苦手な人とも接触しないほうがいい。「そんなことをいうと、社会性のある人間になれない」とかいう人もいるだろう。すべての人と仲良くする必要なんてないのだ。極論でいえば、オウム真理教の教祖とも仲良くすべきなのかという話である。一般的にもわかりやすい犯罪者などであれば、多くの人は「そんな人とかかわるべきでない」と思うわけであるが、問題のある人は、犯罪者以外にもたくさん存在する。もっといえば、すべての犯罪者は最初は普通の人である。相手の肩書きが何であれ、自分が不快に感じる相手と無理やりに付き合うことなんかしないほうがいいのである。国会議員なんてかなり立派な肩書きであるが、犯罪者もたくさんいるわけである。肩書きだけで判断すると、ろくな目には合わない。先日も国会議員の買収工作を受けて、多くの地方政治家が辞職させられたではないか。「国会議員だから安心だ」と思っていたはずで、その時、不快に感じたのであれば、それに従っていれば辞任することにもならなかったわけである。肩書きではなくて、自分が素直に感じたままで判断したほうが、必ずいい結果になるものである。私は53歳であるが、私の場合でいえば、過去に「あの人は嫌いだけどお金や出世のために無理してつきあったほうがいい」と思ってつきあって、意味があったことは一度もない。たしかに、一時的に多少金になったかもれないが、中長期的に見ると、大いなる時間の無駄であったと思う。自分が嫌な人や仕事や学校などから、できるかぎり距離をとって生きていくと、結果的に自分のまわりにあるものは、自分が好きなものだけになっていくわけである。この状態になると、けっこうな幸福感が生まれてくるものである。その自分にとって嫌いじゃないものごとは、自分にとって好きなものだけになるわけである。サッカーの中田は野菜をいっさい食べない偏食家として有名である。野菜を食べなくても、日本一のサッカー選手になれるのだ。たばこは体に悪いからやめるべきだという意見が支配的であるが、たばこを吸い続けてがんになる人よりも、たばこをやめてがんになる人のほうがはるかに多いのだ。読売新聞社の支配者である渡辺恒雄は90歳くらいだけど、タバコをガンガン吸いまくっていて、今も元気なのをみればよくわかる。死んでいる人は、みんな禁煙している人ばかりである。自分は自分である。他人とは違う存在である。何が異常で、何が正常であるかは、すべての人が異なっているのだ。「自分にとって嫌なことをやらない」私はそれが人生で一番重要なことだと考えている。社会生活を営んでいると、突然、仕事をやめてしまうということは難しいわけであるが、段階的にやめる努力をし続けたり、できるかぎり距離をおく努力をするだけで、かなり違った人生になると思う。フェイスブックの投稿で気にくわないことばかりをいっている知り合いをブロックすると、本当にすっきりする。そんなやつ、元々友達でもないんだから、どうってことないのだ。もし、そんな奴が友達なんだとすれば、とっとと絶交したほうがいいと思う。自分が大事だと思っていたものが、本当はそうではなかったと気づく時、道は大きく開けていくものである。

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