自分の感覚が、すべてであるという考え方

日常の出来事

自分は自分である。

他人がなんといおうが、蜂の子をうまいと思うのであれば、

自分にとって蜂の子は美味しい食べ物である。

私はとても蜂の子なんか食べられない。

自分がどう感じるかだけが重要なのである。

自分が「いいなあ」と思ったものが、いいもので、

自分が「いやだなあ」と思ったものが嫌なものなのである。

他人の評価など関係ないのだ。

「あの人は素晴らしい人だよ」といわれても、

自分がそう思わなければ、自分にとっては、その人は素晴らしい人ではないのだ。

多くの人は、自分の感覚をあまり重要視していないと思う。

自分の人生の中では、自分しか存在しないのに、自分の感覚を信じないなんて

ありえないことなのだ。

もし、自分がALSになったしまったら、どうするのか?

視線以外、すべての筋肉が動かせなくなり、しかも失明してしまったら

自分はどうするのか?

自分は暗闇の中で存在し他人と意思を疎通することもできない存在になるのだ。

その状態を許容することができるのだろうか?

数十年前であれば、悩むことなく、死んでいったものが

医学の進歩により、死ねなくなってしまっているわけである。

そこで安楽死を選ぶという選択は、むしろ普通のことではないだろうか?

それでも、「生きたい」と思うのであれば、それはとても強烈な意思である。

その時に、その人がどう感じるかは、その人にしかわからない感覚なのである。

その感覚に従って生きることは、とても重要なのだ。

社会生活を営んでいると、

特に会社生活や学校生活というのは、見えない鎖でがんじがらめにされている

ものである。

家庭生活も同様である。

その中で、我慢に我慢を重ねて生きている人がどれだけ多いことなのだろうか?

素直に、自分の意思に従ってみることは、そんなに簡単ではないのだ。

一度、それをやってみると、人生はとても楽しいものだということに気づく。

多くの幼児が楽しそうにしているのは、

自分の意思に忠実に従っていきているからなのである。

大人だって同じである。

でも、それができている人は少ない。

腹が減ったから飯を食う人は少ない。時間がきたから飯を食うになっている人が

ほとんどだろう。

私もそうである。

自分の意思を確認するためには、なんらかの枯渇感を感じないとわからないものである。

自分が「いいな」と思うことだけをやり続ける。

自分が「いやだな」と思うことをやらない。

おそらく人間以外の生き物の、ほぼ全てはそうやって生きているのだ。

人間だけが例外ではないのだ。

なぜ、人間がそうなったのかというと、為政者が社会をコントロールしようと

考えたからである。

現在では、その為政者自身が分散し、社会の多くの場所に偏在して、

特定の誰かという状況になっていないのだ。

日本の為政者は首相ではなく、それぞれの社会に存在する分散する小さな為政者たち

なのである。

誰だかわからない為政者に支配されている社会が、日本なのである。

彼らは自分が為政者であるという自覚すらなかったりするのだ。

多くの人は、

存在するのか、しないのか、はっきりしないものに、支配されて生きているのだ。

だったら、自分の意思に支配されて生きる方がよっぽど楽しいと思う。

単純な理由である。

実際に自分の意思に従って生きてみると、違法行為なんてまず、やろうと思わないものである。

だれかの利権を脅かすことになる場合は多いが、それはむしろ遵法行為である。

楽しく生きること、笑っていきること、それなりに運動すること、ふつうに栄養をとること、

社会の役にたつことをやること、そんな感じで生きていればいいのだと考えている。

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