家畜と野生動物 どっちがかわいそうか?

日常の出来事

多くの人は、家畜はかわいそうだという。

自然のままで暮らす動物は幸福だという。

はたしてそうだろうか?

自然界にいる動物が死ぬときは、餓死か、病死、もしくは天敵に襲われて

死ぬわけである。

人間のように、病院で看取られて死ぬことはありえない。

怪我をして動けなくなり、餌も取れずに、雨風にあたりながら、

衰弱して死んでいく動物も数多くいるわけである。

一方、人間に飼われている家畜は、基本的にすべて安楽死である。

少なくとも、できるかぎり苦しまないような配慮をされて死ぬわけである。

(無論、例外もある)

しかも、その家畜の種は確実に保存されていくわけである。

自分のDNAを保存することが目的だとすれば、

家畜となることで、その目的は達成されているともいえるわけである。

だから、家畜は幸福なのかといえば、必ずしもそうではないだろう。

自分の意思で自由に行動する野生動物のほうが、幸福に見えるのは

当然のことなのかもしれない。

かつて中国には宦官という名称の官僚がいた。

ごく最近まで存在していたのだ。

生殖器を切り取られた男性である。

考えられないと思うのであるが、その多くは自分の意思で宦官に志願して

なっているのだ。

普通の男として苦労して生きるより、宦官になって天寿を全うしたほうが

幸福であると考えて、志願してなる人が多数いたという。

餓死者がでるような時代であれば、そう思う人も多くなるのかもしれない。

何が幸福で、何が幸福でないかは、誰にもわからないことなのだ。

例えば、自分の命と引き換えに、自分の子供の命が助かると保証されるなら、

喜んで死を選ぶ人は多数存在するだろう。

そうでない人も、同様に多数存在するわけである。

家畜を単純に不幸だと思うことには賛同できない。

無論、単純に幸福だとも思わない。

幸福とはいったい何なのか?

いちいち考えている人は少ないわけであるが、意識しているか

無意識であるかは別にして、すべての生き物は、何らかの答えをもって

行きているのだ。

腹が減ったら飯を食うということだけに喜びを感じて行きている場合もあるだろうし、

自分の子供の世話に生きがいを感じている場合もあるだろう。

言語化できるかどうかは別問題なのだ。

別の見方をすれば、自分の幸福について、しっかりと言語化し、

それに向かってまっすぐ生きている人はかなり幸福度が高いといえる。

多くの家畜は、空腹を満たして、それなりに運動して、ストレスが少なく

生きていれば、相対的に幸福なのではないかと思う。

決して不幸ではないと思う。

死ぬ直前まで、愛情を受けて育てられて、一瞬の苦しみの後、死んでいく

家畜の一生はそんなに悪いものではないと思う。

我々人類は動物を食べないと、天寿を全うできないのだ。

仮に人間だけがベジタリアンになったとしても、食物連鎖の中で、

他の生き物は捕食し続けるのだから、殺生自体をしないということに

意義はないと私は考える。

命の問題について、毎日考えていると、滅入ってくるのは事実である。

かといって、何も考えないのは、よろしくないと思う。

自分なりに、人生に一度くらいは真剣に徹底的に考えて、自分独自の

考えをまとめる必要があると思う。

本当は、そういうことを政府や教育機関がやるべきだと思うのであるが、

実際の日本社会では、この問題に正面から向き合わずに、逃げている

わけである。

米国や英国のようなキリスト教国家のほうが、真剣に対応しているわけである。

ゆえに日本では個人の資質がとても重要なのである。

自分なりに真剣に考えた答えを出すことである。

完璧な答えなど存在しないのだ。

野生動物も、家畜も、人間も、それぞれの立場で、それなりに努力して

生きているわけである。

かわいそうとか、そうでないとか、感情論である。

生物が生きるということには意味があり、長かろうが、短かろうが意味があるのだ。

その意味を、自分自身でどのように解釈するかなのだと思う。

家畜として生きている豚もいれば、自宅でペットとして飼われている豚もいる。

ペットとして飼われている豚が幸福で、家畜の豚が幸福でないのではない。

幸福な豚と、幸福でない豚がいるのではない。

そういう解釈だけが存在しているのである。

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