寄生虫のように生きることの意味

世の中には、寄生虫のようにして生きている人はけっこういるものである。

ほとんど仕事をしていないのに、大企業で窓際族として存在している人、

夫の悪口ばかりをいいながら、夫の収入で生活をしている人、

あげていったらキリがない。

身近にそういう人がいると、感じている人は、本当に不快なわけである。

彼らに生きる意味はあるのか、ないのか?

結論からいえば、「ある」である。

人生とは、生きていることそのものに価値があるからである。

他人からみて、どんなに不恰好だと思われても、多くの人から非難されても、

生き続けているということ自体に価値があるからだ。

理想的な生き方などというものは、存在しないのだ。

はっきりいえば、生きているか、そうでないかが重要なのである。

多くの人は、前向きなことをやっていないと、結果的に辛くなるので、

前向きにやっているのだ。

もし後ろ向きとされているようなことでも、それでいいと思えて、

続けることができるのならば、それはそれでいいのである。

人間は、自分の意思で自らの命を絶つ時のみ、非難されるべきだと思うのだ。

映画アルマゲドンの主人公のように、自分の命と引き換えに、

多くの人の命(というか地球全体)を助けるような場合の自死は、無論例外である。

まだ、生きることができるのに、生き続けないことはだめだ。

よく生活保護の不正受給者や、その類の人に対して、

ものすごい敵意を持っている人に遭遇するが、そこまでして生きたいという

意思を持っているだけでも、彼らは存在する価値があると思う。

無論、違法なのだから、非難されるべきで、それなりの酬いを受けなければいけないが、

生きようとする執念には見習う価値があるのだ。

よくダイバーシティ(多様性)という言葉を誤解している人がいる。

ダイバーシティとは、こういう人も含めてすべての人を許容していく考えなのである。

犯罪を犯した人は、刑務所などで罪を償わなければいけないが、それが済めば、

社会は受け入れなければいけないのだ。

あまりにもとんでもない人は、一生、刑務所に入ることになるだろうが、それはそれで

受け入れなければいけない。

話が少し脱線してしまうが、そういう考えなので、私は死刑制度には反対である。

人間が人間を殺すということは、すべての終わりを意味し、何の救いも解決にならないと

考えているからだ。

世の中に、必要のない人は、ひとりもいないという考えである。

無論、私には、嫌いな人も、気にくわない人も多数存在している。

私のことを嫌いな人も、気にくわない人も多数存在しているわけである。

お互い様なのだ。

どんな生き方をしようが、その人の勝手である。

やりたければやればいい。

それが法律に違反しているなら、罪を受けなければいけない。

大麻にしたって、海外の合法な国でやる分には、問題ないわけである。

少なくとも、それなりの国家がそう判断しているわけだ。

とやかくいうことではないのだ。

人から、「寄生虫のようだ」といわれても、気にする必要はなく、堂々と生きればいい。

そのうちそれが間違っていると思えば改めればいいし、そのままでいいと思えば、

続ければいいと思う。

私としては、そういう人とは、あまり関わらないように気をつけている。

はっきりいって、私は嫌いだ。

だから、できるだけ離れていたいと思うだけである。

でも、そういう人だって、何かのきっかけで、生き方が変わる時があるかもしれない。

そうなる可能性は極めて低いかもしれないが、0ではないのだ。

繰り返すが、人生の価値は、どう生きるかではなく、

生き続けるか、そうでないかだけである。

すべての人は生きる価値があるのだ。

 

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