私には86歳になる母親がいる。
私は母を、「おばあちゃん」と呼ぶ。現実には、私の祖母ではなく、
母親なのであるから、間違っているのは承知している。
子供の頃は、「ママ」と呼んでいたのであるが、
50歳を超えた私が、母親を「ママ」と呼ぶのには抵抗があるのだ。
かといって、一度も使用したことがない「お母さん」なんて
呼称は、なんか恥ずかしくて使えないのだ。
よって、半分照れ隠しの意味も含めて、「おばあちゃん」と呼んでいる。
年子の妹は、「おかあさん」と呼んでいる。
ある時、妹に、「おかあさんって、呼ぶの?」と聞いたら、
「やっぱりママというのは抵抗があるから、ある時期からおかあさんに変えたのよ」
といっていた。彼女には、わたしのような「照れ」がなかったようである。
残りの二人の姉は、「ママ」と呼んでいる。
これは、生まれて以来、使い慣れている呼称なので、まあ普通の話である。
日本という国は、なんというか、年をとった女性が「ママ」といっても
問題はないが、年配の男性が同じようにいうと、なんか違和感があるわけである。
イメージしてみよう。
長嶋一茂が、父親のことを「パパ」と呼んでいたら、違和感があるだろう。
近年は、そういう人権みたいなものがかなりしっかりしていたが、
二十年前だったら、おそらく「こどもみたい」とか「ファザコン」とか
言われていたはずだ。
もしかしたら、本人の前では、今でも長嶋一茂は「パパ」と呼んでいるかもしれないが、
テレビなどでそういう発言をしたことはないはずだ。
わたしの兄弟のように、それぞれが異なった呼称を使用するケースは稀だと思う。
普通は、統一されているはずだ。
分析してみると、わたしの兄弟はみんな自由なのだと思う。
みんな好き勝手に生きているから、そうなるのだ。
これはとてもいいことだと思う。
常識などというものは、社会秩序を維持するためにつくられたものであるが、
高度に成熟した社会では、だんだんと必要なくなってくるものである。
そういう意味では、わたしの兄弟はみんなけっこう成熟しているのかもしれない。
まあ、親の教育に、感謝である。