なんのために私は生きているのか

もうすでに55年行きている。

織田信長なら、とっくに死んでいる年齢である。

でも、まだ、私は、なぜ自分が生きているのか、毎日、問いかけている。

自分自身に対して。

もし、私に生きる理由がなくなったら、生きていないはずである。

私は生きている。

それは、生きる理由があるから。

では、私が生きる理由とはなんなのであるか。

これは、考えすぎるくらい考えたのだ。

少年時代にも考えたが、よくわからなかった。

ある時期、悟りを開き、「いい女とやること」が私の生きる目的となった

時代がある。

でも、それは間違っていたと思う。

その時は、それが真実だったのだと思うが、それだけでは

長い間、生きていくモチベーションにはならなかったのだ。

そして、また考えた。考えて、行動をし続けた。

その過程で、結婚もしたし、二人の子供もできた。

長男は、今年20歳になる。今は大学生だ。

次男は中学三年生になった。野球部で活躍している。

子育ては楽しいし、充実していたし、とても重要だと思う。

でも私の人生の目的が100だとすれば、10くらいだと思う。

残りの90は別のことだ。

では残りの90はなんなのか。

厳密にいえば、その90の中に子育ても含まれているので、子育ては10ではなく

それ以上なのであるが、便宜上、それは分けた。

私はたまたま立派で優秀な二人の息子に恵まれた。

でもそれは、必然ではない。

幸運だっただけだ。

私の人生の目的は、私が少しでも成長し、世の中に少しでも貢献できることである。

こういうと、簡単である。

でも、世の中への貢献とは、誰も定義できないくらい、ややこしいことである。

例えば、もし、北朝鮮に生まれたとして、現状の国家を維持するために努力することが

世の中のためなのかどうか、一概にはいえないどころか、

世界の常識では明らかに逆行することである。

日本なら、そうでないかというと、似たようなものである。

今の自民党政権にとって都合のいいことを支持することが

世の中のためなのだろうか?

具体的に考えるとわかりやすい。

自民党政権は、原子力発電を推進している。

では、日本や世界のために、原子力発言を推進すべきなのか?

普通に考えたら、それはないだろう。

現に、日本国民の50%以上は、自民党支持者でさえ、原発に反対している。

にもかかわらず、維持されているのは、彼らにとっての利益が優先されているからである。

じゃあ、立憲民主党や日本共産党に、日本の政権を任していいのかというと、

そうは思わない人が多いので、

原発はしょうがないが、それでも自民党のほうがマシであると、多くの人が

思っているからである。

我々はそういう矛盾の中で生きているのだ。

考えてみるとわかるが、原発問題なんて、我々が悩んでいる様々なことと比べれば

たいしたことのない問題である。今は。

こういう社会の中で、たとえ、ほんのわずかでもあっても、世の中を

よくすることができるのなら、十二分に、生きる価値があると

私は感じている。

コンビニにいって、五円を募金する。

この行為に、なんの意味があるのか?

私のようなおっさんでも、たとえ五円でも募金するのを目撃した、店員はどう思うか?

「こいつ最悪だ」とは思わないだろう。

少しは、ポジティブに感じると思う。

「こんなおっさんでも世の中にちょっとでも貢献しようと考えているんだ」と

思わせるだけでも、世の中を、ほんの少しよくすることにつながっていると

私は思う。

平均、1日1回として、私はもう数千回募金していると思う。

その数千人のコンビニの店員のうち、もし10%が、何かポジティブな意味を

感じてくれていたとすれば、私は数百人に対して影響を与えたことになる。

そんなに悪いことではないだろう。

私は大したことはやっていないかもしれないが、

似たようなことはけっこうやっている。

街で、ビックイシューを売っているホームレスの人に遭遇したら、

必ず千円を渡し、「お釣りはいりません」といっている。

本当に彼らは、それだけでとても嬉しそうな顔をする。

それだけでも、私には生きている価値があるような気がする。

むしろ、彼らよりも、私のほうが満足しているのだ。

私の息子に1万円の小遣いをあげても、そんなに喜びはしないが、

彼らに1000円あげると、本当に喜んでいることを感じるのだ。

世の中は、助け合わないといけないのだと、つくづく感じるのだ。

私だっていつかは、誰かの助けがなければ生きていけなくなる日が来るのだ。

突然死以外の人は、すべて、誰かの世話担って死んでいくのである。

それが、病気なのか、事故なのか、老衰なのか、貧困なのか、いじめなのか、

誰にも予測でないのだ。

今、私は元気で、力もある。

やる気もある。

経験値もあるし、スキルもある。

だから、その力で、世の中に貢献したいと考えている。

でも、なにかあった時には誰かに助けてもらいたいのだ。

誰もが、遠慮せずに、誰かに助けてもらえる社会って、とても素敵だと思う。

弱い人や、脱落していく人を、「ざまあみろ」とか思う社会は、

嫌な社会である。

世の中をよくする。

社会とは、自分の身の回りのことである。自分の気に入った身の回りを

いい社会に変革することは、そんなに難しくない。

まずは、自分一人の社会をつくり、そこで自分自身が満足する社会をつくり、

それを少しづつ、広げていくのだ。

いきなりはできない。

でも、少しづつやれば、必ずできる。

なぜなら、社会の最小単位は自分である。

自分が自分だけという社会をつくり、その中で納得いく社会をつくることは誰にでもできる

からだ。

最悪、山奥にでもいき、一人暮らしをすれば自分一人だけの社会をつくるのは

難しくない。

現実には、東京だって、自分一人のコミュニティをつくることは、そんなに難しくない。

例えば、アパートに一人暮らしをしている多くの人は、隣の人の顔さえ知らないのだ。

仕事にもよるが、一人だけで生活することは可能である。

そして、それができれば、一人づつ、ゆっくり仲間をつくっていけばいい。

もし仲間が一人できて、二人になったら、最高だ。

三人になったら、この世で一番幸福になれるかもしれない。

それを今、私は日々の活動の中で、実践しているのだ。

なんか楽しい。

今、55歳なので、100歳までは、45年もある。

そこまで長生きしたいとは思わない。

92くらいで十分だ。それだって、37年もある。

人生は生きているというだけで、すばらいいものである。

 

 

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