京王線暴漢事件:これこそが死刑制度の弊害

事件の深読み

京王線の車中で、突然男が暴れ出し、多くの人に危害を加えた。

彼は「人を二人殺して死刑になりたかった」といっているわけである。

ここまで明確に発言した例は初めてかもしれないが、

秋葉原の連続殺人なども、公共のシステムを利用したある種の自殺であるといえるのだ。

つまり、社会に不満を持っている人間が、

誰かを無差別に殺して、死刑制度を利用して自殺を行うということなのだ。

「そんな人間がいるわけがない」と考えるかどうかは勝手であるが、

現に、こういう具体例が現れているわけである。

先進国のほとんどでは死刑制度は廃止されており、日本は数少ない例外の国家である。

なぜ、日本で死刑制度中止の議論が進まないかというと、2つの理由があったと思う。

一つには、政治家の得票に結びつかない事案だからである。

イメージしてみよう。もし、先日の衆議院選挙で候補者が

「私は死刑制度廃止を公約にします」といって、演説をしたとして、彼が当選できるだろうか?

まず、無理である。

コロナや、財政問題や、経済施策や、年金問題などの生活に密着した問題をほぼすべての候補者が

語っていたわけである。

死刑廃止を必要だと考えている政治家は多いが、票にならないから、やらないのである。

二つ目は、オウム事件である。

つい先日、オウム事件の主犯である麻原彰晃に死刑が執行されたのは記憶に新しい。

国民感情も加えて、様々な理由により、彼の死刑執行が優先されたのである。

別の見方をすれば、今後、死刑廃止問題が少しづつクローズアップされてくる可能性はあるのだ。

今回の京王線の事件がきっかけになる可能性もあると思う。

私はこう考える。

世の中で一番大切なことは、経済や年金よりも、安心である。

安心を実現できた社会であれば、多少の問題があっても乗り切れるを考えるからである。

もし、すべての人と社会がしっかり助け合う社会が実現できていれば貧困などは

そう恐るものではないのだ。

でも、現状では誰も助けてくれないと考えている人が多いので、社会不安が大きいのである。

世界的に日本ほど安心安全な国家は存在しないのに、

そこに住んでいる日本人は、あまり安心を感じずに、いつも不安を抱いているのである。

この不安を解消することが、私は政治の最大の役割ではないかと考えている。

死刑制度をそういう視点から改革し、廃止し、その代わり終身刑をつくるわけである。

殺人を犯した人を殺すのではなく、罪を償い続けさせるのである。

殺人者を殺してしまえば、同じ過ちを二回行うことになるわけである。

世界最古の法律は、ハンムラビ法典である。

目には目を、歯に歯を、殺人を犯した人には罰として死刑をという法律である。

太古の昔に作成された法律を未だに遵守していることの矛盾に気づくべきたと思う。

この犯人のような人間がどのような過程で育ってきたのか?

それらをしっかりと検証し、そこに、政治が介入できる余地があったのかなかったのか

を検証し、こういう問題が再び起きないようにする努力が重要である。

今の日本社会では、問題を犯した人間を更生させるという視点に大きく欠けていると感じる。

問題が起きるまでほっておいて、問題が起きたら逮捕して罰するだけの傾向が強い。

ゆえに、犯罪者の再犯率が極めて高いのだ。

こういった問題にしっかりと向き合い、大きな予算をつかって、社会不安をなくしていくことが

政治の最大の役割であると私は感じている。

この事件を教訓にしなければいいけないと思う。

 

 

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